2009年09月16日

遠い眼

09-9-16
ビジュアルアーツ・アワードを受賞した野村次郎さんの受賞写真集「遠い眼」のあと
がきを書きました。
ひと月もすれば写真集ができることでしょう!

「遠い眼」
彼には、たいして行きたいところがあるわけではない。
せいぜい、近所の野山に出かけては写真を撮り、
または撮らずに何かを確かめては帰って来る。
時には、崩れかかる山肌に出くわし、
何かを恐れるように逃げ帰るのだ。
帰ったその家にはいつも家族がいて、彼はひとり安堵するのだった。

そこは関東平野の淵の、とある田舎町。
秩父の山並みが屏風のように折り重なり、川も田畑もある人里を取り囲む。
どんな時もすぐそこの山々が彼を見おろし、
そのいくつもの山からの視線を感じては、彼は見守られている気さえしていた。
毎日のように見ている山々だ。
彼はその山々のひとつの襞に分け入ってみたいとずっと思っていたが、
行く理由が見あたらないままになっていた。
いや、そこへは行ってはいけないと、訳もなく恐れてもいたのだ。

そんな見慣れた山並みを気にしながら、
時折、彼は家からそう遠くはない野や川や、何の変哲もない原っぱに出かける。
秋の枯れ草を踏み歩いては1枚、
草むらの向こうに川面を見つければ駆け寄ってまた1枚、
雨後の荒れた川のうねりがいいと、何枚も写真を撮る。
行きたいのはそんな場所ぐらいだ。

ある晴れた日、
彼は少しばかりの勇気を奮い、はじめてその山に入った。
曲がりくねった山あいの道は、
舗装からすぐに砂利道になり、やがて獣道のように細く狭まっていた。
暗く鬱蒼とした木立の間を歩きながらも、
彼は、努めて平常心を保とうとしていた。
たえず山からは湿った風が吹き下ろし、
彼を撫でてゆく。
そして、誰かに頬を撫でられている気がして、ひとり鳥肌立つのだった。
彼は振り向いた。
すると、来た道が笹で掻き消されて見えなくなっていた。
背後から誰かがついて来ているのだろうか。
彼は、追っ手から逃げるように、
明るみがのぞく尾根へと駆け上がって行った。
駆ければ駆けるほど、
追っ手が二人、三人と増えてたちまち包囲されてしまうだろう。
彼は先へ先へと急ぐ他なかった。
山の高みは、さきほどまでの暗がりが嘘のように眩い。
彼は青々とした夏の山を眺めて歩いた。
ただひとりでいることが、こんなに自由で晴れ晴れしく思えたことがなかった。
いくつかの切り通しを抜け、岩が剥き出した崖を回り込むたびに、
戻れなくなる気がして、彼は一瞬歩みを止めた。
黒々とした山肌が谷側に落ち込み、
その上には明るいばかりの空が天空まで広がっていた。
遠くに近くに、さえずる鳥の鳴き声、
すぐそこで切り通しの岩がガラガラと音をたてて崩れ落ちる。
彼は足がすくんだ。
見ると、湾曲した道の先が崩落して、ポッカリと穴が空いていた。
自分の呼吸さえも山を揺らし、崖を崩すのかと、彼は息を止めた。
何故に、何を見たくてここまで来たのか、もう、わからなくなっていた。
いくつかの橋を渡り、川を越えてきた。
彼は、もう戻れないところまで来てしまった気がして悔やんだ。
もう、この先には行ってはいけない。
ひとり怖くなって、彼は逃げるように山を下りたのだった。

逃げ帰った家には、父と母と犬のミミ、
そして、イグアナのルーシーがいる。
折々にその家族のひとり一人を写真に撮る。
自分を撮ることもある。
年老いた父や母は物静かで、
吠えない犬と鳴かないイグアナは剥製のように動かない。
彼はいつもその家の自分の部屋から外ばかり眺めては、写真を撮っていた。
大きな窓にはあの山も、あの川や野原も見えていたわけではないが、
モノクロームの淡い濃淡が移ろうように、
空から山へ、そして川や野原へと季節が移ろいゆくのを彼には見えていた。
何年もこうして身の回りの些細な出来事を写真にし、
ただひとつの窓を見つめては写真を写す。
イヤというほど思い知らされる外界の移ろいを、
ただただ眺め、ただただ、彼は自分を見つめるばかりだ。
たいして行きたいところもなく、逢いたい人もいない。

そんな彼のもとにひとりの女性が現れたのは、
野山に新緑が芽吹き、里にサクラが咲く季節だった。
彼女も言葉少なげな人だ。
彼と同じように、一日中、窓ばかり眺めていることもある。
若い盛りを胸の内に閉じ込めてきたのだ。
彼には、よく見える。
彼女の心の襞が、
あの山中のように暗く、立ち入る者を拒んでいる。
彼女もまた、たいして行くところもなく、逢いたい人もいなかった。
彼はそんな彼女を、鳴かないイグアナのルーシーでも撮るように撮った。
畦にただ佇み、
部屋に寝そべる姿、
また、時に微笑む彼女を撮り逃すまいと、彼は連写する。
写真だけが彼に勇気を与え、
写真にしか夢中になれなかった彼のそばに、今、彼女がいる。
まるで負った傷でもふさぐかのように、
遠くばかり見ていた彼の眼は、そこにいる彼女を見つめる。
posted by setos at 06:10| Voice