2009年09月18日

吠えない犬



09-9-18
彼は宇宙の果てに向かって飛んでいた。
振り向いても、地球どころか太陽系も自分の銀河も見あたらない。
もう戻れないという思いからか、
これまで生きて来た証としての、記憶のよりどころさえ見る見る消えてゆく気がした。
彼は、記憶を繋ぎ止めようと眼を閉じ、
地上での数々の出来事を思い返してした。
記憶は彼にとって生そのもののように思われ、
その喪失は、彼には死を意味していた。
音もない暗黒の中で、記憶は音をたてて彼の身から抜け出ていた。
ボーッ、ボーッと、音と光が身体から漏れ出てゆくのがわかる。
そして、その眩い光の塊が時に束となって、宇宙空間に飛び出てゆくのだった。
彼はその恐怖に耐えるように、
目まぐるしく思い出される過去の出来事をひとつひとつ引き止めていた。

彼が犬のコロだったころのことだ。
公園の池のボートに乗せてもらったことがある。
彼は、ボートの上からテラさんに向かって吠えつづけた。
滑るように走るボートの上で必死に吠えていると、
ボートが右に左に揺れてひっくり返りそうになる。
すると、テラさんの大きな笑い声が、遠くの岸から水を渡って来て、
彼の周りで波立たせるのだった。
そんなコロを見て、テラさんはあきれていたに違いない。
彼は<吠えない犬>と、近所から陰口をたたかれても、
吠えつづけていた。
皆にはコロの声が聞こえない。番犬にもならない。
だけど彼は彼らしくひとり吠えるだけだった。
そんな彼がテラさんと歩いていると、
ひとり立ち止まって夜空を見あげたことがあった。
飼い主のテラさんも足を止められ、
辺りの明かりを遮るように手をかざし、
コロの視線を追うように暗い空の遠くを見つめた。
目を細めても天の川は見えない。
だけど、テラさんにもコロにも宇宙には天の川がいくつもあるように思われた。

136億光年の彼方をめざしている彼には、
地球での遠い昔の出来事が生々しく感じられた。
 
posted by setos at 14:14| Voice