2009年09月19日

隅田川

 
09-9-19
136億光年の彼方をめざしている彼には、
地球での遠い昔の出来事が、どれもが生々しく感じられた。
丸い地球のいろいろなところに行った。
数えれば、31の国と数十の都市を歩いたことになるだろう。
そのどれも写真を撮るために訪れ、
未だ見ぬもう1枚の写真をさがす旅でもあった気がする。
その、未だ見ぬもう1枚の写真だけが彼の生きがいだったに違いない。
南アフリカの山で、ほんとうに川のように夜空に横たわる天の川を眼にしたとき、
彼は宇宙はすぐそこにあるのだと実感し、いつか行ってみたいと思ったものだ。
今、その天の川の中を通過しながら、
もう帰れない古巣を探している自分が不思議でならなかった。

昔々のある春の午後、彼は隅田川を見わたしていた。
ネコだった彼には、墨田川は途方もなく広い大河のように思われた。
彼には橋を渡る勇気などない。身を隠す場所のない、この幅の広い歩道を歩くには勇
気がいるのだ。これまでに、どれだけの仲間がこの吾妻橋を渡ることに挑戦してきた
ことか。そして、幾度もその無惨な姿を目にしたことか・・・
 地面からわずか20センチ……地を這うようなこの視線からは、向こう岸の様子が
見えない。橋の中央がわずかながら弓なりに盛り上がっているためだ。何度も橋の欄
干に沿って歩いてみたが、中ほどまで来ると怖くなって引き返してしまう。走って戻っ
て来ると、風が止んだように落ち着くのだ。だけど、いつかは川を渡って行かなけれ
ばならないだろう。
 
 彼はテラさん飼われていた。
犬だった時も彼はテラさんというご主人に飼われていた。
この橋の袂の遊覧船乗り場にうずくまっているところを拾われたのだ。人間が近づい
て来れば、いつも素早く床下に逃げ込むのだが、その時は不思議にも逃げる気になれ
なかた。生まれてこのかた、人に触られたことなどなかったけれど、テラさんの手
には身をゆだねてみようと思ったのだ。
 彼はテラさんをよく見かけていた。船乗り場の階段を駆け上がって、橋を越えてゆ
くテラさんの勇敢さにいつも見とれていた。その後について行ったこともあったが、
いつも途中で怖くなって引き返してしまう。
 春のぼんやりとした朝のことだった。
橋の上には風が吹いていた。乳白の空から降るように落ちてくるナマ暖かい風と、川
面からのヒンヤリとした風が彼のいる橋の上で混ざり合うと、その風の乱れに方向が
わからなくなるのだった。
 テラさんの手は人の手にしては熱を帯びていて、人間より熱い彼の身体は、その手
に包み込まれると息が詰まりそうになった。彼は人に抱えられたことがなかったのだ。
白く清潔そうなその手の指をなめると、仄かに魚の匂いがしていた。
 テラさんはその橋から川上の方に100メートルほど行った、<墨田テラス>とみ
んなが呼んでいるところに住んでいた。その家に向かう道すがら、彼が人間の言葉を
理解できないのをいいことに、テラさんは油断したように自分のことをベラベラとしゃ
べっていた。彼はまだ1歳だけど、30にもなるテラさんの心情がわかる気がした。
「いいか、おまえはこれから俺の言うことを聞いて、立派なネコになるんだ」そう言っ
て、テラさんは岸壁の階段を下りながら、好物の魚は何とかしてやるから着いて来い
と言うのだった。そして、川に面した、テラスに見えなくもないコンクリートの遊歩
道に彼を下ろすと、ひとりすたすたと歩いて行った。船が行き交うたびに波が押し寄
せてきて、その水しぶきでテラスが濡れた。彼は恐る恐る水を避けて歩いた。
posted by setos at 07:32| Voice